ベトナム政府が科学技術・イノベーション分野において歴史的転換点を迎えている。2025年末にトー・ラム党書記長の署名により発出された「第57号決議(Nghị quyết 57-NQ/TW)」は、1988年の農業改革「コーアン10(Khoán 10)」になぞらえ、科学技術分野における規制緩和と民間活力の導入を大胆に推進する画期的な政策文書として注目を集めている。2026年は、この野心的な政策を具体的な成果へと結実させる「行動の年」と位置付けられており、ベトナムのイノベーション・エコシステムが本格的に始動する年となりそうだ。
ベトナム初の大学発ホールディングス「BKホールディングス」とは
ベトナムにおける産学連携の先駆的事例として、ハノイ工科大学(HUST)傘下の「BKホールディングス」が挙げられる。2008年に設立された同社は、ベトナム初の大学内ホールディングカンパニーとして、研究成果の商業化、産業界との連携、そして知識からの経済的価値創出を担ってきた。
BKホールディングスは、いわゆる「持株会社」形態で運営され、大学で生まれた技術シーズへの投資、技術移転の推進、そしてスタートアップのインキュベーション(起業支援)を一手に担う。設立当時、大学指導部は欧米やアジアの先進諸国を視察し、大学発ベンチャーの運営ノウハウを学んだという。世界的には大学内企業モデルは珍しくないが、2008年当時のベトナムでは前例のない挑戦であった。
15年の実践から導き出された「4つのP」
BKホールディングスは15年以上にわたり、「Lab to Market(研究室から市場へ)」という理念のもと、研究成果の事業化に取り組んできた。その経験から導き出された最も重要な教訓は、「本質的なイノベーションを推進するには、専門的な中間支援組織の存在が不可欠」という点である。
同社の関係者は、中間支援組織が成功するための必須条件として「4つのP」の原則を提唱している。
第1のP:Policy(政策)
大学としてイノベーションを戦略的優先事項と位置付けているかどうかが出発点となる。単に学生を教育し、学費を徴収することだけを目的とする大学であれば、イノベーション推進やインキュベーターは不要である。経営陣の明確な意思と長期的なコミットメントが不可欠だ。
第2のP:People(人材)
イノベーション推進には「プロカデミック(Procademic)」と呼ばれる特殊な人材が必要とされる。これは「プロフェッショナル(Professional)」と「アカデミック(Academic)」を融合させた造語で、学術界の文化を理解しつつ、ビジネスマインドも持ち合わせた人材を指す。純粋な学者を技術移転部門に配置しても、市場理解やビジネス感覚の欠如から成果を上げにくい。逆に、外部から純粋なビジネスパーソンを招いても、学術界の独特な文化や研究者の論理を理解できず、摩擦が生じやすい。
第3のP:IP Portfolio(知的財産ポートフォリオ)
大学が保有する研究成果の性質に応じて、適切なモデルを選択する必要がある。社会科学系、工学系、建築系など、分野によって商業化のアプローチは大きく異なる。画一的なモデルではなく、各大学の研究特性に適合した戦略設計が求められる。
第4のP:Proof of Concept Fund(概念実証基金)
基礎研究から商業化までの間には「死の谷」と呼ばれる資金ギャップが存在する。従来の研究助成は基礎研究や初期段階の応用研究を対象としており、アイデアを市場投入可能な製品へと昇華させる中間段階への支援が不足している。この空白を埋める専用基金の整備が急務である。
「第三の使命」を担う大学の変革
興味深いのは、技術移転や起業支援に携わる人材が、伝統的な学術界から必ずしも歓迎されてこなかったという点だ。純粋な学術研究者からすれば、論文執筆や教授職への昇進を目指さず、「商業的」な活動に従事する同僚は理解しがたい存在だったという。このような認識のギャップは、スウェーデンのルンド大学やシンガポール国立大学(NUS)など、世界の名門大学でも同様に見られる現象である。
従来、大学の使命は「教育」と「研究」の二本柱であった。しかし近年、ベトナム政府が「スタートアップ」や「イノベーション」を重視する政策を打ち出したことで、大学の「第三の使命」としての社会貢献・産業創出機能が正当に評価されるようになってきた。
シンガポール「Block 71」に学ぶ三者連携モデル
ベトナムでも注目を集めている「トリプルヘリックス(Triple Helix)」モデル、すなわち「政府・大学・企業」の三者連携について、シンガポールの成功事例が参考になる。
その象徴的存在が「Block 71」である。シンガポール政府は、取り壊し予定だった老朽化した集合住宅を活用し、イノベーション・スタートアップの拠点として再生させた。ここに国立シンガポール大学(NUS)が知的資源、研究者、学生を提供し、通信大手シングテル(SingTel)が資金力とデータ基盤を提供した。この三者がそれぞれの強みを持ち寄った結果、Block 71はシンガポールで成功したスタートアップの約65%を輩出するインキュベーション拠点へと成長した。
もう一つ注目すべきは「マッチングファンド」と呼ばれる資金スキームである。シンガポールでは、民間投資家が1ドル出資すれば、政府も同額を拠出する仕組みを採用している。この方式の優れた点は、リスク評価を民間に委ねることで、政府側の複雑な審査プロセスを省略できる点にある。自己資金を投じる民間投資家は、当然ながら最も慎重にリスクとリターンを精査するからだ。
ベトナムの三者連携は「理論先行」からの脱却が課題
ベトナムでも三者連携の重要性は盛んに議論されているが、その多くは理論レベルにとどまっているのが現状だ。真の課題は、「いつ、誰が、どの程度の比重で参画するか」という具体的な実行設計にある。単に「三者で協力しよう」と号令をかけるだけでは不十分であり、各段階における役割分担と参画比率を明確化する必要がある。
欧州各国の都市型イノベーションセンターでは、明確なロードマップが設定されている。立ち上げ初期は政府が主導的役割を果たし、資源を投入してモデルを「育成」する。その後、システムが軌道に乗るにつれて政府の関与は徐々に薄まり、運営は民間セクターへと移管される。最終的に政府はKPI設定と監督機能に専念するという流れだ。
大学は「良質な種子」の供給源
三者連携における大学の役割は極めて重要である。大学こそが「種子」の供給源だからだ。種子とは、研究成果そのものであり、それを生み出す研究者や専門家のことでもある。いくら優れたインキュベーターや支援メカニズムを整備しても、良質な種子がなければすべての努力は水泡に帰す。種子の品質を担保するのは大学と研究機関の責務であり、企業や政府、投資政策はその種子を育てる「土壌」と「肥料」の役割を担う。
「死の谷」を越えるための処方箋
研究成果が市場に届かない「断絶点」はどこにあるのか。その答えは、研究の出発点における方向設定にある。
旅に出る際、最初から目的地を市場と定めていなければ、そこに到達することはない。研究者が「論文発表」を最終ゴールと設定すれば、学術的アプローチに終始する。逆に「商業化」を目標とすれば、初期段階から全く異なる思考法とアプローチが求められる。
政策的な解決策は比較的シンプルだ。研究助成基金の評価基準を、論文数から特許取得や商業化実績へとシフトさせればよい。つまり、「何を成果として評価するか」を変えることで、研究者の行動様式も自ずと変化する。
第57号決議がもたらす「規制緩和」への期待
現在、ベトナムのイノベーション推進において最も心強いのは、トー・ラム党書記長が主導する第57号決議の存在である。この決議は、科学技術・イノベーション・デジタルトランスフォーメーションの国家的推進を明記しており、従来の規制を「解き放つ」姿勢が鮮明に示されている。
トップレベルのビジョンと政策方針は正しい方向を示している。しかし、現場レベルでは依然として実施細則の不備や専門人材の不足により、政策の浸透に時間を要している。マクロ政策が道を開いても、実行段階で滞るという課題は依然として残されている。
2026年は「行動の年」
2026年は「行動の年」として位置付けられている。法的枠組みは既に整備され、財政的リソースも確保された。これらの条件が揃った今、成果が出なければ、その原因は客観的条件ではなく、人材の能力と経営手腕に帰せられることになる。
第57号決議は、1988年の農業改革「コーアン10」になぞらえられている。コーアン10は、集団農業体制から個人農家への生産責任制への転換を認め、ベトナム農業の飛躍的発展をもたらした画期的政策であった。同様に、第57号決議は科学技術・イノベーション分野における「解放」政策として、ベトナムの技術立国への道を切り開くことが期待されている。
AI分野で「世界的ブレイクスルー」は可能か
では、ベトナムからOpenAIのような世界的なAIスタートアップが誕生する可能性はあるのだろうか。
バイオテクノロジー、精密機械、先端材料といった分野では、ベトナム発のスタートアップが世界的成功を収める可能性は極めて限定的だという見方が強い。これらの分野は、巨額の設備投資、最先端の研究施設、基礎研究から応用研究、開発研究に至る長期的かつ体系的なプロセスを必要とするからだ。
しかし、情報技術、特にAI分野においては、ベトナムの潜在力に対する期待は大きい。適切な投資と政策があれば、ベトナム人のイノベーション能力は十分に発揮されるとの見方が支配的だ。
ベトナムの知性を、標準化されたエコシステム、実行可能な政策、体系的な投資、そして人材を重用するメカニズムの中に置けば、大きな成果を上げることができる。最も重要かつ決定的な要素は「政策」である。政策が実行可能かつ実用的でなければ、企業も研究者も活用できず、意味をなさない。
現在の前向きな変化の勢いを踏まえれば、2026年から2027年頃には、第57号決議に代表される優れたマクロ政策の成果が目に見える形で現れ始めるだろう。その実現のためには、柔軟な実施姿勢、現実に即した評価、そして適切な軌道修正が不可欠である。資金の流れが正しい方向に開かれれば、近い将来のブレイクスルーに対する希望は十分に持てる。
日本企業・投資家への示唆
ベトナム政府のイノベーション政策の本気度は、党書記長自らが署名した第57号決議の発出に端的に表れている。日本企業にとって、これは単なる政策文書以上の意味を持つ。ベトナムにおける研究開発拠点の設置、現地スタートアップとの協業、大学との共同研究といった取り組みが、今後より一層推進しやすい環境が整いつつあることを示唆している。
特に注目すべきは、ベトナム政府が「マッチングファンド」型の官民連携スキームや、大学発ベンチャーの育成に本腰を入れ始めた点である。日本の技術やノウハウを持ち込み、ベトナムの優秀な人材や成長市場と組み合わせるビジネスモデルが、今後さらに有望になる可能性がある。
2026年は、ベトナムのイノベーション・エコシステムが理論から実践へと移行する重要な転換点となりそうだ。この動向を注視することは、ベトナム市場への参入や投資を検討する日本企業にとって、戦略立案上の重要な示唆を与えてくれるだろう。
出典: Vn Economy
いかがでしたでしょうか。今回のベトナムのイノベーション政策について、皆さんのご意見もぜひお聞かせください。コメント欄や@viettechtaroのDMでお待ちしています。この記事が参考になったら、ぜひXでシェアしていただけると嬉しいです。より多くの方にベトナム投資の魅力を伝えたいと思っています。
【noteメンバーシップのご案内】
より詳細なベトナムの経済ニュース解説や企業の投資分析、現地からのリアルタイム情報をお求めの方は、ぜひメンバーシップへのご参加をご検討ください。
https://note.com/gonviet/membership












コメント