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ベトナムで2025年7月に施行された改正社会保険法により、登録済みの個人事業主(ホーキンドアン=hộ kinh doanh)にも強制社会保険への加入が義務づけられた。しかし、国際労働機関(ILO)が2026年3月に公表した最新報告書は、財政面や収入の不安定さ、制度運用上の課題など多くの障壁が残ることを明らかにしている。ベトナム経済の根幹を支える数百万の個人事業主をいかに社会保障の網に取り込むか——その道筋を詳しく読み解く。
ベトナム経済における個人事業主の存在感
ベトナムの経済構造において、個人事業主(hộ kinh doanh)は極めて大きなセグメントを占めている。飲食店、小売業、理美容、修理業、農産物加工など、地方・都市部を問わず生活インフラの担い手として機能しており、雇用創出と地域経済の発展に不可欠な役割を果たしている。政府統計によれば、登録済みの個人事業主だけでも約500万を超えるとされ、未登録を含めればその数はさらに膨大である。
しかし、ILOの報告書が指摘するように、この巨大な経済セクターにおける社会保険の加入率は依然として極めて低い。事業主本人はもちろん、そこで働く従業員の多くも社会保険の保護を受けられず、病気・失業・老後といったライフリスクに対して無防備な状態に置かれている。
改正社会保険法(2024年法)の狙い
2024年に成立し、2025年7月1日から施行された新たな社会保険法は、強制加入の対象を登録済み個人事業主にまで拡大した。これは、ベトナム共産党が2018年に採択した第28号決議(Nghị quyết số 28-NQ/TW)で掲げた「2030年までに社会保険カバー率60%達成」という目標に向けた重要な一歩と位置づけられている。ILOの報告書も、この法改正が数百万人の労働者に社会保障を届ける潜在力を持つと評価している。
ILO調査が明らかにした財政・収入面の障壁
ILOは800件以上の個人事業主・個人経営者を対象に調査を実施し、社会保険加入を阻む具体的な障壁を分析した。
保険料負担の実態
改正社会保険法では、登録済み個人事業主は自ら申告する賃金水準を基に保険料を算出でき、最低額は参照基礎賃金(現在月額234万ドン)を基準とする。法定の保険料率25%を適用すると、月額の最低保険料は約58万5,000ドンとなる。
労働力調査のデータによれば、個人事業主の平均月収は約1,400万ドンと推計されている。したがって、最低保険料は平均月収のわずか約4.6%に相当し、大多数の事業主にとって支払い可能な水準にあるといえる。年齢別にみても、多くのグループが最低保険料を「妥当」と評価しており、月間売上高に対する比率は1〜4%程度にとどまる。また、全経費(事業主自身の人件費を含む)を差し引いた後の利益率が10%を超える事業主も全体の約4分の1に達している。
若年層・新規事業主の困難
一方で、25歳未満の若い事業主は売上・利益ともに低く、財政的な余裕が限られるため、社会保険への加入をためらう傾向が顕著である。また45歳未満の事業主も、収入自体は比較的高いものの、家庭関連の支出を優先するため貯蓄の余地が乏しい。
特に飲食業、観光業、サービス業など季節変動の大きい業種に従事する事業主は、収入の波が大きく、設備への再投資も必要であるため、毎月一定額の保険料を安定的に支払い続けることが難しい。新規に事業を開始したばかりの事業主も同様の懸念を強く抱いている。
ILOが提言する政策オプション
ILO報告書は、ベトナム政府が検討すべき複数の政策オプションを提示している。
1. 納付方式の柔軟化と負担軽減
改正法では四半期払い・半年払いの選択肢が設けられたが、ILOはさらなる柔軟性が必要だと指摘する。具体的には、複数年分の前払いに対して割引を適用する仕組みが提案されている。収入が多い時期にまとめて支払うことで、財政負担を時間的に「平準化」できるメリットがある。
2. 移行期における一時的補助金・段階的料率の導入
事業の正式化(フォーマル化)の初期段階にある事業主や、支払い能力の低い事業主に対しては、期間限定の補助金支給や、保険料率を段階的に引き上げるロードマップの適用が有効であるとされる。
3. 国家予算による「雇用主負担分」の一部補填
個人事業主は雇用主と被雇用者の二重の立場にあるため、通常の企業における雇用主負担分を国家予算で一部カバーする選択肢も提言されている。これにより、正式化の初期段階での財政的圧力を軽減し、収入変動による「脱落」を防ぐ効果が期待される。
4. 段階的な加入義務化と一時停止メカニズム
事業登録から24カ月以内、あるいは売上が一定の閾値を超えた時点で強制加入を義務づけるなど、段階的なアプローチも示されている。同時に、赤字や収入が最低基準を下回った場合には、保険料の支払いを一時停止しつつも制度から排除しない「セーフティネット型」の仕組みを整備する必要がある。
5. 個人事業主を「特別な企業形態」として位置づける
ILOは、個人事業主を他の企業形態と対等な立場に置き、公平な制度設計を行うことの重要性も強調している。
投資家・ビジネス視点の考察
今回のILO報告書と社会保険拡大の動きは、一見すると投資テーマから遠い「社会政策」のニュースに見えるが、ベトナム経済・株式市場を分析するうえでいくつかの重要な示唆を含んでいる。
第一に、フォーマル経済化の加速である。個人事業主を社会保険制度に取り込む動きは、税務・会計データの透明化と表裏一体であり、ベトナム経済全体のフォーマル化(正式化)を後押しする。これは、2026年9月に判断が見込まれるFTSE新興市場指数への格上げに向けた市場インフラ整備と方向性を同じくする。制度の透明性向上は、海外投資家からの信頼を高める要因となりうる。
第二に、保険セクターへの追い風である。数百万人規模の新規加入者が社会保険制度に流入すれば、社会保険基金の資産規模が拡大する。これはベトナムの債券市場や資本市場全体の流動性向上に寄与する可能性がある。また、社会保険への意識が高まることで、民間の生命保険・損害保険商品への関心も連動して上昇する可能性があり、バオベト・ホールディングス(BVH)などの保険銘柄への間接的な好材料となりうる。
第三に、日系企業への影響である。ベトナムに進出している日系企業の多くは、現地のサプライチェーンにおいて個人事業主との取引を有している。個人事業主のフォーマル化が進めば、取引先の信用情報や財務状況の把握が容易になり、サプライチェーンの安定性が向上する。一方で、保険料負担の増加が零細事業主のコスト構造を圧迫し、短期的にはサービス価格の上昇やインフレ圧力につながるリスクもある。
第四に、消費市場への中長期的影響である。社会保障の充実は、家計の「予備的貯蓄」の必要性を低下させ、消費性向を高める効果がある。個人事業主層の社会保障が拡充されれば、中間層の消費拡大を通じてベトナム内需関連銘柄(小売、不動産、食品など)にプラスの波及効果をもたらす可能性がある。
ただし、ILOが指摘するように、制度設計の柔軟性や実行力が伴わなければ、加入率の低迷や「名ばかり改革」に終わるリスクも存在する。今後の政令・通達レベルでの具体的な制度設計と、地方レベルでの執行体制の整備が注目される。
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出典: 元記事












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