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欧州委員会が2026年3月に提案した「産業加速法(Industrial Accelerator Act=IAA)」が、EUの気候・産業政策における重大な転換点として注目を集めている。同法は2030年までに約3,000万トンのCO₂削減を見込むと同時に、域内の製造業基盤を再構築し、「脱炭素」と「産業競争力の維持」という二兎を追う野心的な枠組みである。ベトナムの輸出産業や進出日系企業にとっても、無視できない影響を持つ政策転換だ。
EUの政策転換の背景——「規制型」から「産業政策型」へ
EUはこれまで数十年にわたり、排出権取引制度(EU-ETS)や環境基準といった市場メカニズムを通じた気候政策を推進してきた。しかし2020年以降、地政学的リスクに伴うエネルギーコストの急騰、中国を筆頭とする新興工業国との競争激化、そして重工業セクターの生産縮小が重なり、従来のモデルでは対応しきれない現実が浮き彫りとなった。
IAA提案の直接の伏線となったのが、2025年に発表された「クリーン産業ディール(Clean Industrial Deal)」戦略である。同戦略では、公共調達や財政支援を活用して低炭素製品の「リードマーケット(先導市場)」を創出するという構想が打ち出されていた。IAAはこの構想を法的枠組みとして具体化したものといえる。
注目すべきは、当初「産業脱炭素加速法(Industrial Decarbonisation Accelerator Act)」と呼ばれていた法案から「脱炭素(Decarbonisation)」の語が意図的に削除された点である。これはEU内部で、環境目標を重視するグループと経済競争力を優先するグループとの間で激しい議論があったことを如実に示している。結果として、法案の射程は気候対策にとどまらず、産業主権の確保という戦略的目標へと拡大された。
IAAの主要政策ツール
IAAは複数の政策手段を組み合わせた包括的な枠組みであり、主な柱は以下の通りである。
①「Made in Europe」要件の導入:公共調達および国家補助を受けるプロジェクトにおいて、欧州製品の最低使用比率を義務付ける。例えば、公共事業で調達される電気自動車(EV)の少なくとも70%はEU域内生産でなければならない。建設・産業プロジェクトでも、鉄鋼・アルミニウム・セメントについて一定のEU産比率が求められる。
②クリーンエネルギー技術の重点育成:バッテリー製造、エネルギー貯蔵システム、太陽光パネル、風力タービン、ヒートポンプ、水素電解装置といった分野を戦略的重点領域に指定。これらはEUが将来のエネルギーシステムの基盤と位置づけると同時に、グローバルサプライチェーンへの過度な依存を懸念している領域でもある。
③外国投資への条件付与:バッテリー、EV、再生可能エネルギーなどの戦略分野において、1億ユーロを超える外国投資プロジェクトには、技術移転、雇用創出、EU企業の出資参加といった条件が課される可能性がある。
④行政手続きの簡素化:許認可プロセスの迅速化など、投資環境の改善策も盛り込まれている。
CO₂削減効果と「グリーン脱工業化」への対抗
欧州委員会の試算によれば、IAAの実施により2030年までに約3,000万トンのCO₂削減が見込まれる。削減の大部分は、クリーンエネルギー技術の生産拠点をEU域内に移転することで実現される。たとえば、EVバッテリーを中国から輸入する代わりにEU内で製造すれば、欧州の電力系統は中国よりも炭素集約度が低いため、製造過程の排出量が大幅に減少する。
しかし、IAAの本質的な意義はそれにとどまらない。近年、EU産業部門の温室効果ガス排出量が減少してきたのは、技術革新の成果ではなく、単に生産量が縮小した結果にすぎないとの指摘が強い。これはすなわち「グリーン脱工業化」——生産を域外に移転することで見かけ上の排出削減を達成する現象——であり、地球全体の排出量削減には寄与しない。IAAは、生産能力を維持・拡大しながら排出を削減するという、先進国にとっての気候政策の本丸に正面から取り組む試みである。
EU域内の対立と「互恵主義」による妥協
IAA策定過程では、加盟国間の深刻な意見対立も露呈した。フランスは「Made in Europe」政策を強く支持し、域内産業の保護を最優先に据えた。一方、ドイツやオランダなど自由貿易を重視する国々は、過度な保護主義が生産コストの上昇や貿易摩擦を招くと懸念を表明した。
また、英国・日本・スイスといった親密なパートナー国の製品を「Made in Europe」の範囲に含めるかどうかも議論の的となった。最終的に欧州委員会は、これらの国がEU企業に対等な市場アクセスを提供する「互恵(レシプロシティ)」の原則に基づき、条件付きで参加を認めるという妥協案を提示している。
グローバルな政策潮流——米中欧の「グリーン産業政策」競争
IAAは、気候政策と産業政策の融合という世界的潮流の中に位置づけられる。米国はバイデン政権下でインフレ抑制法(IRA)を通じて大規模なクリーンエネルギー補助金を投入し、中国は以前から再生可能エネルギーのサプライチェーン構築に巨額の国家補助を注ぎ込んできた。IAAは、こうした新たな経済秩序に対するEUの回答であり、21世紀の気候変動対策がもはや環境問題ではなく、技術覇権・サプライチェーン支配・経済的主権をめぐる競争であることを鮮明にしている。
ベトナム経済・投資家への示唆
一見するとEU域内の政策に過ぎないIAAだが、ベトナムの産業界と投資家にとって以下の点で重要な意味を持つ。
第一に、ベトナムの対EU輸出への影響である。ベトナムはEU向けに鉄鋼製品、アルミニウム加工品、太陽光パネル部材などを輸出しているが、「Made in Europe」要件が厳格化されれば、公共調達関連の需要がEU域内にシフトする可能性がある。特にホアファット・グループ(Hoa Phat、ベトナム最大手の鉄鋼メーカー、銘柄コード:HPG)やナムキムグループ(Nam Kim、銘柄コード:NKG)など鉄鋼関連銘柄は、EU市場の動向を注視する必要がある。
第二に、ベトナムの「チャイナ・プラスワン」戦略との関連である。IAAが中国製品の排除を事実上強化する場合、EU企業はサプライチェーンの多元化先としてベトナムへの関心をさらに高める可能性がある。特にバッテリー部材やEV関連部品の製造拠点としてのベトナムの位置づけが強まるシナリオも考えられる。ビンファスト(VinFast、ベトナム初のEVメーカー)の欧州展開戦略にも間接的な影響があり得る。
第三に、FTSE新興市場指数への格上げ(2026年9月決定見込み)との関連である。ベトナム株式市場が新興市場に格上げされれば、海外機関投資家の資金流入が加速するが、投資判断においてはEUの通商・産業政策の変化がベトナム輸出企業の収益にどう影響するかが重要なファクターとなる。IAAの動向は、ベトナム株の「グローバルリスク要因」として今後ウォッチすべき項目に加わるだろう。
第四に、日系企業への影響である。日本がIAAの「互恵的パートナー」として認定されれば、日本企業のEU域内での事業展開に追い風となる。一方、ベトナムに生産拠点を持つ日系企業がEU向けに輸出する場合、「Made in Europe」要件に該当しないリスクがあり、サプライチェーン戦略の見直しが求められる局面も出てくる。
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出典: 元記事












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