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ベトナムのオフィスワーカーの間で、退勤後もスマートフォンを手放せず、グループチャットやクライアント対応に追われる「見えない残業(tăng ca vô hình)」が深刻な社会問題として浮上している。急速なデジタル化と「常時接続」文化が、労働者の心身を静かに蝕んでいる実態が明らかになった。
17時30分に退社しても「仕事は終わらない」
ホーチミン市で働くミー・ハーさん(Mỹ Hà)は、毎日17時30分にオフィスを後にする。しかし、彼女の「勤務時間」はそこで終わらない。帰宅後も常にスマートフォンを手元に置き、顧客からの電話やZalo(ベトナムで最も普及しているメッセージアプリ)の業務グループチャットに即座に対応できる状態を維持し続けなければならないのだ。
ハーさんのようなケースはベトナムでは決して珍しくない。近年、ベトナムのオフィス環境ではZaloやMessenger、社内チャットツールを活用した業務コミュニケーションが爆発的に普及した。上司や顧客からのメッセージは昼夜を問わず届き、「既読」機能がある以上、返信しないという選択肢は事実上存在しない。こうした「見えない残業」は勤怠管理上は記録されず、残業手当の支払い対象にもならないのが実情である。
ベトナム労働法の規定と「見えない残業」の矛盾
ベトナムの現行労働法(2019年改正、2021年施行)では、通常の労働時間は1日8時間・週48時間以内と定められており、残業は月40時間を超えてはならないとされている(特定の業種・状況を除き年間200時間、最大300時間が上限)。しかし、退勤後のチャット対応や電話対応は「残業」として認識されにくく、法的なグレーゾーンに置かれている。
この問題はベトナムに限った話ではない。フランスでは2017年に「つながらない権利(Le droit à la déconnexion)」が法制化され、従業員50人以上の企業に対し、勤務時間外のメール対応に関するルール策定を義務づけた。オーストラリアでも2024年に同様の法律が施行された。一方、ベトナムではこうした「つながらない権利」に関する法的枠組みはまだ整備されておらず、労働者は個人の裁量で対応せざるを得ない状況が続いている。
背景にあるベトナム特有の職場文化
ベトナムの職場文化には、上下関係を重んじる儒教的価値観が色濃く残っている。上司からの連絡に対して「勤務時間外なので対応できません」と断ることは、キャリアへの悪影響を恐れて実行しにくい。特に営業職やカスタマーサービス職では、顧客対応の遅れが直接的に業績評価に響くため、24時間体制での対応が暗黙の了解となっているケースも多い。
また、ベトナムでは若年労働者の割合が高く、労働市場の競争も激しい。2025年時点でベトナムの人口は約1億人を超え、労働力人口は約5,200万人とされる。都市部のオフィスワーカーは比較的高い給与を得られるポジションを維持するため、過剰な業務負担を受け入れがちである。「代わりはいくらでもいる」という圧力が、見えない残業を助長する構造的要因となっている。
メンタルヘルスへの影響が顕在化
常時接続による「見えない残業」は、労働者のメンタルヘルスに深刻な影響を及ぼしている。退勤後も常に業務連絡を気にしなければならない状態は、十分な休息を妨げ、慢性的なストレスや睡眠障害の原因となる。世界保健機関(WHO)は2019年に「バーンアウト(燃え尽き症候群)」を国際疾病分類に正式に含めており、ベトナムでもこの問題への関心が高まりつつある。
ベトナム国内の調査では、オフィスワーカーの多くが退勤後も平均1〜2時間程度を業務関連のメッセージ対応に費やしていると報告されている。年間に換算すれば膨大な「無給労働時間」となり、これは労働者の権利の観点からも看過できない問題である。
投資家・ビジネス視点の考察
この問題は一見すると社会・労働問題に限定されるように見えるが、ベトナムに進出する日系企業やベトナム株式市場に投資する投資家にとっても、以下の観点から注視すべきテーマである。
第一に、労働規制の強化リスク。ベトナム政府は国際的な労働基準への適合を進めており、CPTPP(環太平洋パートナーシップ協定)やEVFTA(EU・ベトナム自由貿易協定)の締結に伴い、労働者の権利保護を強化する方向に動いている。将来的に「つながらない権利」に類する規制が導入されれば、人件費や労務管理コストの上昇につながる可能性がある。これはFPTコーポレーション(FPT、ベトナム最大手のIT企業)やベトナム航空(HVN)など、大量のオフィスワーカーを抱える上場企業に影響を及ぼし得る。
第二に、人材確保・離職率への影響。ベトナムでは近年、IT人材を中心に人材獲得競争が激化している。過度な「見えない残業」は離職率の上昇を招き、企業の生産性や成長性を損なうリスクがある。日系企業がベトナムで優秀な人材を確保・維持するためには、労働時間管理やワークライフバランスへの配慮が差別化要因となるだろう。
第三に、2026年9月に決定が見込まれるFTSE新興市場指数への格上げとの関連。FTSE格上げが実現すれば、ベトナム市場には大量の海外資金が流入する見込みだが、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資の観点から、労働慣行の透明性や従業員の権利保護状況が海外機関投資家の投資判断に影響を与える可能性がある。「見えない残業」のような構造的な労働問題が国際的に注目されれば、ベトナム企業のESG評価にネガティブに作用するリスクも否定できない。
ベトナムの急速な経済成長は、こうした労働者の「見えない犠牲」の上に成り立っている側面がある。持続可能な成長を実現するためには、デジタル時代にふさわしい労働時間管理の枠組み整備が急務であり、その動向はベトナム経済・投資環境の質を左右する重要なファクターとなるだろう。
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